1972年 青森県生まれ
小さい頃から森の中を走りまわり、神社の境内で遊び、ダイダラボッチ(山の神さま)がいること信じて大きくなる。
太陽や月、風や水、草木など、言葉を交わせないものにも命があり、あらゆる物に霊が宿る(アニミズム)という感覚が自然に身についていた。
高校生のころは、高校の裏にあった神社でよく昼寝をしていた。自分のことを考えたり、ショックなことがあったときに、自分のバランスを整える場所でもあり、神社を囲む鎮守の森は、自分の拠り所となっていた。
1989年

高校卒業後、東京でアクセサリー会社に営業として勤務
学校での勉強に興味がわかず、学びたいこともわからなかったため、とにかく「自分の足で立ってみよう」と就職を選んだ。仕事の成績を伸ばすことはゲーム感覚で楽しかった。
しかし、慣れ親しんだ自然と距離を置き慌ただしく過ぎていく日々のなかで、今の仕事が本当に自分に適した仕事であるかどうかと思うと次第に違和感が芽生え始める。

 

ローリングサンダーの本との出会いで運命が動き始める
毎日通勤電車に揺られ、サラリーマンとして働く違和感が大きくなるなか、知人にある一冊の本を手渡された。本の中には「自分がどこにいると気分がいいか。まわりの自然や人間にとけ込んだと感じるかそれを見つけることから始めたらいい」と書いてあった。それがネイティブアメリカンの「ローリングサンダー」という本だった。
故郷の青森の神社が思い浮かび、自分のこれからの居場所が自然と関わる場所でありたいと思い始める。

1995年 会社を退職。自分探しの日々
6年お世話になった会社を退社。退職後半年間無職になり、ひたすら自分を見つめ直した。これから何がしたいのか、自分の役割は何なのか、立ち位置はどこなのか、そんなことを考えるのはいつも樹がうっそうと生い茂った神社、鎮守の森だった。
こうした場所を護りたいという気持ちが芽生えたとき、寄りかかっているイチイの 巨木から、何か後押しをされたと感じた。
その感覚が一体何なのかと考えていると以前雑誌で読んだ樹の治療を行う樹医山野忠彦先生のことを思い出す。連絡をとることから、自分の道が動きはじめた。
1996年

樹医山本光二氏の会社(大阪府交野市:山満造園)に就職
山野先生が設立された日本樹木保護協会の門をたたく。山野先生はすでに引退されていたが、先生の一番弟子の山本氏が受け入てくれ協会に所属。
同時に山本氏が営む大阪府交野市の山満造園に就職。以後、スタッフ数名で、全国の社寺や公園などをまわり、クスノキやイチョウ、マツなどの老木、100本以上の治療にスタッフとして携わる。

2002年

英国のメリストウッドカレッジに留学
日本樹木保護協会スタッフとして全国の巨木・古木などを治療活動に携わる中、高所での作業に限界を感じ始める。と同時に設置する足場設置費用が樹木治療費のかなりの部分を占めるため、高額な樹木治療費をどうコストダウンできるかが問題だった。
もっと安全に、もっと安価に高所剪定・樹木治療する方法はないか。
そんな想いのなか(株)山満造園を退社し、安全なツリークライミングの技術が確立されている英国、メリストウッドカレッジに留学する。

留学中の様子(当時の写真)

2003年

帰国後、日本樹木保護協会のスタッフを続けながら、独立。
が、そこで習得した技術は、治療というよりは、伐採の技術。重機の入らない立地であっても、ロープさえあればどんな樹木でも安全に効率よくバラバラに解体できる恐ろしい技術だった。英国のような樹木を保護する条例等がない日本で、この技術を公開していいものか悩みながら、職人として武者修行へ。
屋号を創景舎らくだ屋造園に。創業開始。

2005年 TREE SURGERを商標登録
TREE SURGERの定義、立ち位置、モラルを現場にて考える日々。
2016年 交野市私市地区を中心に近畿圏で活動中
ただただ仕事に追われる10年近く。治療樹木が100本くらいだったのが、伐採樹木(支障木・枯木含)は1,000本以上に。
現在は専属スタッフ3名。応援スタッフ4名。
創景舎らくだ屋造園は、そこそこな会社に発展。
2017年 TREE SURGER ホームページ開設。
2016年5月に東京立川で開かれた第2回アーボフェスタを視察し、あまりの盛況ぶりに驚く。と同時に、多くの人が新しいクライミングギアやクライミングの技術にしか目を向けていないことに危機感を感じる。
ツリーサージャーとしても、そろそろ引退の時期が来たので、若手スタッフに教育する目的で念願のHPを開設。
20XX年 閉店ガラガラ~